元・Wizardry原理主義者として思う、ところ。
2011年 01月 17日
→切込隊長BLOG(ブログ) Lead‐off man's Blog
~ Wizardryの濃いファン数名から、日本のwizardryのリメイクはけしからん!とか言われて、はて何のことやら、と思ったところ、どうやら最近wizがまたリメイクされてシリーズ化していたらしい。(中略)
~ すでに日本においてもwizardryというタイトル自体は過去のものであってユーザーの注目するところではなく、どのような作品が現代風にリファインされようともオールドユーザーはそこで得られる新しいユーザーを受け入れ続けることを宿命付けられているのではないか、というような話をした。
幼少の折、Apple][(この表記w)版のWizardryを見てショック、学生時代にMSX版・ファミコン版初代を経験し、こう言ってはなんですが厨二病的に海外製RPG、ひいては洋ゲーマンセーになった時代を振り返るといささか赤面、するんですがなるほど今日でも同作の原理主義、いやさ熱心なファンからすると・・・
「今の」Wizardryには納得がいかないそうで。
なるほどコンピュータの表現力が相当不足していたあの時代、想像力をかきたてる線画にドキュメント、とテーブルトークからコンピュータRPGに入り込んだ当時の世代には今の"Wiz"は納得いかないのかしら?
烏丸と言えば、その赤面せざるを得ないあの頃、を振り返ると確かに、日本向けに、もちろん日本のコアなファンによるアレンジには驚いたり失望したりしましたけれども・・・そもそものSirtech社による"ダンジョンマスター"リスペクトな"Bane of The Cosmic Forge(日本版タイトル:『禁断の魔筆』)"しかり、"Crusaders of the Dark Savant(日本版タイトル:『ガーディアの宝珠』)しかり、本家最終作になってしまったのと、単体RPGとして素晴らしい出来栄え(だけどこれWizじゃなくてもいいよね)な"Wizardry 8"などなど、なーんか本家自身によるシリーズも相当アレだったじゃーん、と思うんだけどどうか、みたいな。
Wizardryにしても、あのシビアなゲームバランスというのは他にあの手のRPGがなく比較対象が少なかったから許された、ということもできるし、UOにしてもEQにしてもROにしてもFFにしても、ブランドへの支持だけではやっていけなくなったときの「転換」に失敗すると文字通りブランドが死んじゃうわけである。
「転換」しようとしてダメにしたのは他ならぬ本家、であってGB版の"外伝"シリーズなんて原点回帰として素晴らしい作品(IIIはどーかと思うけど。バランス的にもストーリー的にも)だと思うし、その後"Wiz"を作りたいけど権利的にアレなのでリスペクト作品を、ってのも現在残っている代表的な作品はどれもこれも「本家の良さ」を残しながら、面白いアレンジを施していて素敵、って思うんですがねぃ。
もっとこう、"Wizardry原理主義"の方には、国産の続編、そしてリスペクト作品をもっとプレイしてもらいたいキモチだ。
ところでDS版の"エルミナージュ2"をプレイ開始から早65時間。
"世界樹~"から久しぶりのダンジョンRPGなんですが、やっぱり携帯ゲーム機との相性はすげーよね3Dダンジョン。中級職、という位置づけがよく分かりませんが、転職前提の職業に育てるだけの旨みがしっかり作られているところとか、クエストの概念が一般的なRPGよろしく盛り込まれているところとか。(ちょっとギャグ要素が余計だけど)
これでリアルタイムセーブだったらいいのにー。
(石の中に埋め込まれて)時間をドブに捨てる恐怖、と隣り合わせの灰と青春、みたいな。